代表 岩渕宣輝プロフィール

写真 公演中の岩渕
1941年東京生まれ。岩手県一関市で育つ。3歳のとき父が西部ニューギニアのコタバル (現在のインドネシア共和国パプア州ジャヤプラ)で戦死。
1967年キャセイ航空に入社後、初めてのパプア巡礼を果たし、衝撃を受ける。
1977年ニューギニア国営航空極東支社長に就任。
1985年パプアニューギニア独立十周年功労勲賞を受勲。
1988年岩手県南の衣川村 (現在、奥州市衣川) に、自費で戦争資料館の建設を開始。
1993年ニューギニア国営航空を退社し、西部ニューギニア方面の遺骸捜索を開始。
1995年終戦50年を機に、資料館の資料・展示品の一般公開を始め、太平洋戦史館代表として、戦史館活動に専念する。
2001年岩手県知事認証のNPO法人となった戦史館の専務理事に就任。
2006年太平洋戦史館会長理事に就任。岩手日報文化賞を受賞。
2013年外務大臣表彰を受賞。
2016年一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会理事に就任。
2018年同協会理事再任
現在、戦史館活動を継続中 … 来館者への展示解説。戦没者遺族のためのニューギニア巡礼の先達。未帰還兵の捜索活動を続け、厚労省に遺骨帰還はじめ戦後処理の早期解決を働きかけ続けている。

岩渕宣輝の提言

戦没者を追悼する場所、千鳥ヶ淵戦没者墓苑について、千代田区、環境省、厚労省、それぞれが抱える矛盾については、すでに遺骨帰還と戦没者の国家儀礼の中で書いたとおりですが、他にも問題は山積みです。

遺骨収容で行われているDNA鑑定についていえば、日本兵かどうかは、モンゴロイド、青年男子と証明されることで、身元がわからないまま、遺骨は千鳥ヶ淵に納骨されますが、その中には、日本兵として徴兵、徴用されてニューギニアで戦没した朝鮮半島、台湾出身者も数多く含まれていることでしょう。彼らの帰りたい場所は、千鳥ヶ淵ではなく、故国のはずですが、帰るすべはありません。日本国内の事情でも、戦没者の遺族は高齢になり、もはや現地へ行くことも難しくなってきました。今後も現地で発見され、収容される遺骸は、どのように供養すればよいのでしょうか?   人としての尊厳を守り、戦没者を忘れないで追悼し続けるには   どうすればいいのでしょうか?

“忘るまじ” “人としての尊厳”という視点で、戦没者をどのように追悼していくのがよいのか、2014年4月20日に発行した戦史館だより94号に掲載した記事を紹介します。この記事は遺族である戦史館会員の皆さんに向けて書いたものですが、ここに改めて掲載して、多くの方々に考える材料にしていただきたいと考えます。

2014年4月20日発行 戦史館だより94号 1~2ページ 『追悼の誠』というのなら遺骨帰還に全力を!

2013年12月26日、安倍首相が靖国神社に参拝した。国内では賛否が分かれ、中国韓国との関係はますます悪化、米国も巻き込んだ大騒動が今も尾を引いている。新聞やテレビは、靖国参拝に反対する理由として …

  1. 憲法20条(信教の自由と政教分離の原則)違反である。
  2. 靖国神社と遊就館の歴史認識は戦争を美化している。
  3. A級戦犯を合祀している。
  4. 近隣諸国との友好を損ない国益に反する。

などと解説している。理由としては、確かにその通りなのだろうが、他人ごとのようで、肝心なポイントを外しているような……。

1月8日に地元の大学で講義をする機会があった。主な内容は、首相の靖国参拝問題と、海外の戦場に兵士たちの遺骸が放置されていて、遺骨帰還が続いている現状についてだ。

学生たちの反応は相当衝撃を受けたようだが、提出されたレポートでは「今のアジア情勢では日本も軍備を強化すべきだ」という意見が何枚もあった。その軍隊に自分も狩り出されるとは、本人は全く思っていない。まるで他人ごとのようだった。

70数年前がどのような時代だったか、命を絶たれた無念さ、残された遺族の苦しみがどうだったか、もう忘れられてしまったのだろうか? 二度と戦争を起こさないために、私たちは今、どう行動すれば戦争を避けることができるのだろうか?

安倍首相は己の信じる理念で「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくる…」と靖国に参拝した。「一国のリーダーが戦没者を追悼するのは当然で外国からあれこれ言われるのは内政干渉だ」という人もいる。安倍さんは、祖父である岸信介氏が、A級戦犯に問われたことで、幼少から悔しい思いをして、心に靖国が刷り込まれていたとすれば、首相就任1周年のごほうびにその気持ちを押し通したかったのかもしれない。

しかし日本国総理大臣としての気持ちを大切にするのなら、参拝はしなかったろうに。

かつて日本の植民地にされた朝鮮半島・台湾・旧満州の人々が、天皇の赤子(せきし)とされ、名前、ことば、信仰を奪われ、国家神道の神社に強制参拝させられた苦しみに、思いを寄せてほしかったが、近隣諸国の反発を「内政干渉」と切り捨てる人たちや安倍さんに、それを求めるのは無理かもしれない。残念だが。

戦史館会員で「父の遺骨が戻らないならせめて靖国で、カミとして祀られて戻っているならそれでいいじゃないか」と首相の靖国参拝を肯定する人もいる。私岩渕はこれまで、戦没者遺族が心のよりどころとして参拝することまでは異論を唱えなかったが、結果として靖国にカミとして祀られることでごまかされ、海外の戦場に遺骸が放置され、忘れ去られてしまったと感じている。そろそろこの靖国のしくみについても気づいてほしいと願っている。

靖国神社は追悼施設ではない。

靖国神社は1869年に戊辰戦争で亡くなった官軍兵士だけを祀った東京招魂社が始まりで、その10年後の1879年に名称を靖国神社と改めた。名前は神社でも、明治になって新たに作られた国家神道の神社は、昔から私たちの暮らしの中にある神社とは異なり、天皇のための軍隊(皇軍)、現人神(あらひとがみ)の存在、戦死すればカミとして祀られ天皇が「親拝」するという3つの要素がセットになった施設で、まさに軍事施設だった。

しかし父たちがカミとして祀られたのは、天皇が神様だった昭和20年12月31日まで。

昭和21年1月1日、天皇の人間宣言をもって現人神ではなくなり、主権在民の時代に。

戦前の教科書に墨を塗って、新たな民主主義が始まったように、国家神道の神社がその役割を終えるとき、それを墨塗りにたとえると、靖国神社は「墨塗り神社」と言えよう。

そののち靖国神社は宗教法人としての道を歩み始めたが、天皇の靖国「親拝」はもうない。

靖国に捕われていた260万の“英霊”はその時に解放され、それぞれの故郷へ帰ったのだから、父たちはもう、靖国にはいない…と私は確信している。

「A級戦犯を分祀せよ」という世論に対し、靖国神社では260万柱の御霊は炎のようなものなので、そこだけを取り出して分祀することは不可…と説明しているが、わざわざ分祀などしなくても、そこにいるのはもうA級戦犯だけなのだから、いっそ「A級戦犯神社」と呼ぶのはどうか。靖国神社が国家儀礼の追悼の場所でないことだけは忘れないでほしい。

ケリー国務長官とヘーゲル国防長官が千鳥ヶ淵墓苑で献花
千鳥ヶ淵墓苑で献花

2013年10月3日、このニュースは日本国内よりも海外で大きく報道された。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、特定の宗教に偏らない国立の施設で、太平洋戦争中に海外で亡くなり引取り手のいない戦没者、35万8千柱の遺骨が納められている。昨年11月の西部ニューギニア方面の遺骨収容で帰還した282柱も毎年5月末に行われる拝礼式で納骨される。この千鳥ヶ淵へ米国の政府高官が訪問するのは1959年に墓苑が作られて以来初めてのこと。

日本では、日本遺族会の強い要望で、外国の政府高官が来日しても、日本側から千鳥ヶ淵訪問を要請することはない。

オバマ政権は「アーリントン墓地(無名戦士の墓を含む)に匹敵するのは千鳥ヶ淵であり、靖国ではない」ことを行動で示した。その5カ月前に安倍首相が「靖国神社はアーリントン墓地に匹敵する」と発言したことへの回答が千鳥ヶ淵訪問であり、「靖国へは行くな!」とうメッセージが明確だ。両長官が来日した2013年10月の米国は、政府機関が閉鎖されるという非常事態の最中。だからこそ米国は安倍政権に向けて、近隣諸国との摩擦を起こして戦争につながるような事態を避けたかったと理解できる。

安倍さんが行くべきは靖国でなく、遺骸の収容ではなかろうか?

戦没者の遺族として東西ニューギニアで、未帰還兵の捜索に長年かかわってきた人間としてひと言。安倍さんには政府専用機で日本兵遺骸の収容に行ってほしい。

戦場で倒れた兵士たちは最後に「お母さん」、あるいは愛しい人の名前を呼んだという。中には「天皇陛下万歳」と叫んだ兵士もいたと聞く。だが「内閣総理大臣万歳」と叫んだという話は聞いたことがない。岩手のことばで「なったきして」というのだが、意味は「何様のつもりか!」に近い。安倍さんは何様になったおつもりか? 靖国に参拝して“戦没者を追悼”とスピーチライターが書いた原稿を読み上げて、それで平和がやってきてくれるならいいのだけれど、新たな火種をおこすことだけはやめてほしい。せっかく民間が日韓等の遺族たちと遺族外交をしようと頑張っているのだから。